「上流諸階層における相互行為」勝手に超訳①

「上流諸階層における相互行為」

Ⅰ 階層分化を維持する条件と「相互行為」フレームの臨界
■階層分化
□下位システム(たとえば「上流階層」)における特殊なコミュニケーションの条件を分岐させる→環節社会よりもはるかに複雑な社会を可能にする→複雑な社会を維持するのに必要な分化→利点も分化→下位システム(上流・中流・下層システム)ごとに利点も分化する→最上流階層は網羅的な形で/アクセス可能性を与えられた形で「全体社会システムの根本的な構造問題を解決しなければならない」(p67)
・上流階層は「総覧的な立場に立つ」という分化した役割が与えられるので、「全体社会の維持」「全体社会システムの構造」に目を向ける必要が生じる。

□上流階層にふりかかってくる「階層分化の二つの問題」
①    資源の不平等配分の問題上 
流階層は地域的・内容的により多様なアクセスをすることになる→上流階層は、他の下位システムと同様に、内的に平等な下位システムを踏み出して、自己システムと他のシステムとの不平等の差異を観察することになるが、アクセス可能性の問題から、上層階層のみが、競争/紛争、同盟/破壊、協調/断交の決定をすることができる/しなくてはならない→進化上のリスクは上流階層のアクセス可能性に集中→ころで上流階層は相互行為能力を掛け金としている→社会はヒエラルヒーモデルで自己理解するので「平等な人々ごとに分離する」ので、上流階層はこのモデルのもと、平等な相互行為により、進化上のリスクに対応しなくてはならない。
 ・マルクスが考えたように「上中下=不平等の秩序」という外的構造があるのではなく、平等とは下位システム内の平等であり、不平等とは下位システム外の秩序原理→不平等は下位システムの踏み越えをモデルをもとにして意味的に理解するときに検出されるものであり、客観的な規準により特定できるものではない。あくまで下位システムの意味投射の産物である。→もちろん、動物などと対比する観点をとると「すべての人間は平等である」という論点考えることができるが、それは、社会外部の視点の導入。(ルソー?)
②    下位システムと環境(下位システムごとの配分構造)
・システム分化のヒエラルヒー化にともなって、それぞれの「下位システム(たとえば上層階層)」と社会内環境との関係がある程度定まる→不平等の固定化→到達可能な複雑性が制限される→「身分相応」的な存在論的に固定されたゼマンティクが説得力を持つようになる。
・その身分相応のゼマンティクも安定を保証しない→内的な「ヒエラルヒーモデル」は、頂点を持つ社会編成を想定するが、近代社会は頂点を持たない構造をとっている。なので、「頂点」は特殊な問題を構成する→頂点は(1)「より上」がないために、「より上/より下」という序列原理が適用されない不可能な特異点であり、「より下」しかないリスキーな地点であるが、(2)誰かがその点を占めていることも経験的に事実であり、(3)このジレンマを解くために、階層社会は、頂点に権力と象徴的な華やかさを集中させて、そこが不可能でありリスクに満たされた地点であることを隠蔽しようとする。宮廷は「栄光と危険の一体性の象徴」となる。(もちろんヒエラルヒーモデルは象徴的に頂点を超えることは可能。それを表現するのが宗教)。
・かくして頂点に位置する最上流層は、権力と栄光を階層内部の相互行為によって示し続ける必要がでてくる。「より上」のない階層に位置する彼らは、より上位審級に問題を先送りすることができないので、他の階層よりも階層内でのコミュニケーションが不可欠→紛争解決・資源運用の解決の方法としての相互行為(相互行為が全体社会的な「問題」を解決する手段となっている)。かれらは相互行為規則から(最上位なので)逃れようがなくにがんじがらめとなり様々な環境問題に対処しなくてはならず、逃げ場のない者を宮廷に集めることにより始まりつつある機能分化に耐える。環境への対処を上首尾に調整する逃げ場としての宮廷での相互行為は、「機能分化」を「相互行為道徳の変化」に転換する(学問的な自律性保持の要求を、宮廷社交上の方策により対処する、といった具合に)ような強制の枠組みを形成する(p70)。
➡このように、上流階層が「機能分化への相互行為による対応」をしていくとして、階層内のコミュニケーションはうまく達成され、社会構造上の問題に対処しうるのか。(a)平等/不平等のゼマンティクによる対抗的象徴化が十全か、という問題、(b)上流階層のコミュニケーション能力は相互行為が形骸化して社会構造上の問題に対応できなくなるという問題、という二つの重大局面(危険点)。
(a)    [不平等の正当化]進化上の的問題に意味的に対応する「対抗的象徴化」(宗教や理念、報酬・罰の図式等)により、システム分化(上/下階層)に必要な不平等を正当化したり説明したり無害化したりする。これによりシステム分化は維持される。→不平等が問題化されると、「世襲貴族/有徳貴族」「形式的地位による承認/功績に基づく内的評価」といった理由を形成区別する区別を導入することにより脱問題化し、階層分化秩序を維持。
(b)    [相互行為の形骸化]相互行為が形骸化して社会構造上の問題に対応できなくなる。たんなる会話や記号交換への退行。
□こうした「不平等を正当化しなければならないケースの増大」「相互行為の形骸化による実質的な対応能力の減退」は、階層再編を引き起こす可能性。そうした問題の現出に対しては、他の上流階層/下のエリート階層による構造再編がなされるが、それはあくまで所与の階層秩序の枠組みのなかでなされるので、全体社会システムの徹底した構造変化としては捉えられない。→しかし、上流階層のコミュニケーションが機能喪失するほどの大変動の場合には、こうした既存の枠組みのなかでの対応(配置転換)ではどうにもならない→政治・経済・宗教が、社会階層の序列規則に抗して機能の優先を要請するようになると、こうした弥縫策は立ち行かなくなる。
□イギリス革命
ジェームズ1世絶対王政志向は大商人と結託として専制を強め、続くチャールズ1世もそうした専制の構図を継承していたが、短期議会まで、あるいは長期議会までは、宮廷に対抗する議会の抵抗も、上流階層内部で展開していた(議会派の上流階層は、金融ブルジョアジーなどは介在させず、上流階層の邸宅・婚姻関係・個人的な友情・徒党で宮廷に対抗した)。しかし、議会と王が激化するなかで、その紛争を上首尾に解決するには、政治権力と金融ブルジョアジーとの連携が避けられなくなっていく。
その連携は均衡したものではなく、政治権力の自律的な存在感の高まりを伴うものであった。ピューリタン革命でのクロムウェルにみられるように、政治権力がきわめて大きな自律性を獲得するようになり、王を処刑するといった「革命」の構図―機能分化ではなく階層分化の秩序での事態の捉え方―では、噴出する全体社会レベルでの問題に対応できなくなっていた(革命で万事よしというわけにはいかない。あるいは反王権でいっても結局クロムウェル的な政治権力の集中と執行の一元化が必要となってしまうほど全体社会レベルでの問題は複雑化していた)。その政治権力(党派的対立)の分出の不可避性を目の当たりにした上流階層(議会)は、一挙に複雑性を縮減することを志向することにより逆に機能分化状況での複雑性を上昇させてしまう全社会的「革命」ではなく、決定権力の分配に関する政治領域(分出しつつあった政治システム)固有の方法、つまり党派の対立をもとにした政治によって混交政体を事態の「解決」として選択した。
→これは「上流階層の相互行為が、防御機能(システム分化維持機能)を失い、政治的対立によって先鋭化する問題をとらえきれなくなった」こと、「政治システム内部で制度化された対立によって政治固有の解決を模索する」ようになったことを意味する。つまり、イギリス革命は、階層分化から機能分化への移行過程を体現している(大陸では18世紀になっても、貴族は「議会」派となるよりは、宮廷=国家の側に自ら同一視していた)。上流階層は、階層分化にもとづいた相互行為シェーマにとらわれてはいたが、一方で相互行為シェーマでは、政治的決定にかかわる問題に対処しえないことも認識し始めていた。
 紛争や階層対立が生じた場合、階層上昇等によって緊張を緩和するという階層社会的な補償措置も、叙任についての政治的決定、規則、手続きにもとづく実践、つまり政治システムに準拠した実践によりなされなくてはならなくなる。18世紀にはかつてないほどの規模と速度の階層再編問題が懸案となっており、政治システムの自律的なフレーミングが必要ということになると、叙任によって緊張関係をほぐすという方法論は階層社会の安全弁としてはどんどん機能しなくなっていた。そして当然のことながら、政治システムに内化された叙任の制度は、政治システム外の全体社会水準の問題に処することはできなくなっていた。階層と政治資源との対応関係(あるいは階層と政治社会との関係)は、階層とは独に作動する機能システムのせり出しのなかで意味を失いつつあった。

Ⅱ. 移行のゼマンティク――その概要
震度計としての移行のゼマンティク
□上流階層の相互行為=階層社会の統合様式なので、相互行為とそのゼマンティクが社会構造変化の震度計として働く→17世紀には上流階層の相互行為の/に基づくゼマンティクが、全体社会認識の構図として包括性を持っているが、18世紀には感情や情動などの動機づけ資源に関連した「利益」についての問いが生まれ、その利益が社会関係の構成とどのような関係を持つのかという問題が前景化し、相互行為のゼマンティクは「社会性」との関係で判断されるようになる。かくして利益・相互行為・社会が結びつけられるが、全体社会変動に対応しうるような「理論」までには到達していないのだが。
■18世紀半ば「美徳と幸福のゼマンティク」

□17世紀~18世紀の社会変動: イギリス革命後半で宗教戦争の危険は現実的であったが、絶対権力・上意下達のシステムでは対応しえない情勢の生起と対応方式の複雑化により、政治的な手続きを介した統合(経済や人格、道徳、科学…すべてに及ぶ統合ではなく)が顕著になってきた。リチャード1世の議会との困難な折衝や、クロムウェルの議会主義よりも集中化した政治統合、リチャード2世の多面的な政治配慮などは、「敵/味方」「宮廷/地方」などの政治固有の区別を軸にして展開される政治過程であり、垂直的な階層分化のもとでの安定的な全体的決定の正当化が困難となったことを示している。この固有の政治過程のせり出しは明白であったので、上流階層は自らの相互行為の条件が変わったということは察知できていた。そこで出てきのが、「徳と幸福の社会化」という相互行為道徳―徳と感情・利害を社会関係に構成的なものとして捉える商業社会論的な構図--である。

→つまり、ヒュームやスミス、ハチソン、マンデヴィルのような相互行為-社会・経済理論は、階層分化が「機能分化的な問題の噴出」に対応できなくなってることへの応答であった。自然感情・幸福は徳と内在的な形で結びつき、それが相互行為状況を超えた秩序の構成に寄与していなくてはならなかった。

→典型的なのは「共感理論(公正な観察者)+見えざる手」により、個別的相互行為における秩序形成と市場という環境における秩序形成とを結びつけた方法論であろう(それは世界貿易・窮乏化、労働の動機付けといった19世紀的問題を解決できるものではなかった)。

■移行期ゼマンティク素描

【1】上流階層の自己馴致

・上流階層は定義上他からの規定に従わない立場(a)であるが、全体社会を見渡す(ことになっている)特権的観察者の立場(b)でもある。(a)が(b)の障害となってはまずい(その場合は上流階層は騒乱と危険の発生源となる)ので、上流階層は(b)に相応しい教育・馴致を受けなくてはならない。教育・馴致の主体も上流階層なので、この教育・馴致は自己馴致となる。この自己馴致にかかわる相互行為道徳は、「自己愛、よく理解された利己心、自制」といった自己言及的規定である。

・道徳感覚論や共感理論は、こうした自己馴致的な相互行為道徳を高度に理論化したものである。

【2】礼儀作法の衰退と相互行為のコミュニケーション的側面の上昇

・18世紀には、外的な礼儀作法をマニュアル化したシビリテ的な礼儀作法は衰退し、外的行儀良さにとどまらず、意図の十全な伝達や他者による受け入れ可能性・蓋然性を確保する能力(メレ的な社交的オネットム)が重要になる。「道徳的オネットムから社交的オネットムへ」「シビリテからポリテスへ」…等々と指摘される変化である。この変化により相互行為・社交はより多くの事象的・時間的・社会的な射程を持ちうるようになる(「宗教以外のことはなんでも話題にできる」)。

(・コーヒーハウス的な文芸的公共圏はこうした相互行為フレームの変化をさらに展開させたものといえるかもしれない。いまだ上流階層の階層内規範の色彩が強く、道徳的・徳論的含意のあったポリテス・社交から、参加者・話題の階層分化を超え、「テーマの複雑性に対話様式の形式化で対処する」方向を進めていったのが文芸的公共圏。)

【3】宗教の希薄化

・こうした相互行為のコミュニケーション的側面の上昇により、宗教に基づき相互行為を統制しようとする志向は減退する。むしろ「政治的決定」が宗教と一定程度の独立性をもってなされること、それにより政治的決定の内容・対象を幅広くできるようにしておくこと、つまり相互行為道徳から「宗教」を除いていくことが、「政治システムの自律」的状況に相応しい相互行為ルールとなる。「最終的に宗教の話題は、上流社会の会話にとって不適切とみなされるようになる(p78)」。

・こうした相互行為ルールは、「階層分化秩序の内部にありながら、宗教的ヒエラルヒーに準拠した集合的意思決定の序列関係に依存することを難しくする」ので、相互行為規範そのものを非宗教的・世俗的に序列化していく必要。ルーマンパスカル「大貴族の身分について」を参照指示。

・Cf. 「人間を精神的存在としてのみ眺めたパスカルの限からは,社会における階級もまた人間精神の形態と構造とを反映するものでなければならなかった.あなたが公爵であるからといって,わたしはあなたを尊敬する必要はない.ただあなたに敬礼すればよい.もしあなたが公爵でかつ紳士であったならば,わたしほそのような資格の双方にたいして払うべきものを払うであろう. ‥しかし,あなたが公爵ではあっても紳士でなかったら,わたしはやはり正当なことをするであろう.すなわち,人間の秩序があなたの家柄に結びつけた外的義務をつくすと共にあなたの精神の下劣さに値いする内的軽侮をいだくことを忘れぬであろう.」綾部友治郎「パスカルの「意志」について」p.50. 

パスカルは社交時代と相互行為規範、宗教の関係。

【4】上流階層/相互行為規範の分岐

・このように相互行為規範は「機能分化」と「階層分化」とのあいだで困難な状況に置かれることとなるが、18世紀は相互行為理論をもとに社会を語るという形式から離脱しえず、相互行為理論は生み出され続ける。

・しかし、機能分化の進展に伴い、相互行為システムは法や政治、科学、経済、…といった機能にかかわる領域、その領域の制御に関与する大貴族から分出せざるをえない。つまり網羅的に諸領域を差配する大貴族の行動空間から、相互行為空間が分離・自律する。一方で、政治・経済支配力を持つジェントリ・法服貴族などの新進上流階層が、大貴族とは異なる観点から相互行為理論を提示・実践する。階層限界的だが全域的な視野を持つ大貴族の行動世界と、経済・政治の観点から彫塑される新進上流階層(低級の上流階層)の相互行為空間とが分かれる。大貴族と新進上流階層の二段階がわけて捉えられ、相互行為理論は後者に限定されていく。

・確かに18世紀の道徳感覚・共感・商業経済論は、ジェントリ的な感性を持つ相互行為理論に親和的といえるかもしれない。

【5】相互行為の自己価値目的化/洗練のための洗練

・大貴族的な全域的責任から免除され自律した相互行為空間は、社交・交際をますます洗練させていく。かつ洗練は神や君主からの働きかけとの関係から生まれていたが、18世紀に入るころまでには、そうした外部により担保されることのない「相互行為の洗練のための洗練」が目指される。

【6】「否定」を排し浮遊する相互行為空間の限界

・相互行為に定位する規範では、相手やテーマを否定すると、行為接続自体を拒絶したことになってしまうので、否定は排除されなくてはならない。一方で、現出しつつある機能システムは、行為接続は否定を排除しない。科学において偽であると批判することは否定することではなく、ある行為を非法と判断するであることはその行為が道徳的に価値がないと断罪・否定するものではない。こうした否定を含みこんだ行為接続により扱いうる世界の事象は増大する/大きな複雑性を扱いうる(コンフリクトと否定への対処可能性)のだが、そのあり方について相互行為理論・道徳は上首尾に表現することができない。

【7】コメルスのモデル

・相互行為規範には否定を取り込むことが難しいという限界はあるが、自己目的的な相互行為様式と幸福の最大化を結びつける「交際・取引commerce」のモデルは、否定をとりこむ機能分化社会への練習台となりうるものであった(ここもスミスの話だとするとわかりやすいのだけれど、逆にそれ以外の該当がわからない)。

・幸福の社会化は、自然本性的な感情にもとづいて形成される道徳に基づいており、宗教や政治、資本蓄積等に担保されているわけではない。だから、階層分化秩序は相互行為パラダイムのなかで承認されているのに、新たな状況のなかで周縁的なものとして捉えられうる。

■一生懸命過去の意味遺産を加工して、構造変化に対応しようとしているが、「社会の構造再編は、相互行為システムのなかで扱えるスケールを超えている。」