社会唯名論と実在論

バークとバージェスの定義(1921)。

 

「社会=似たような精神をもった個人の集合」と考えるギディングスやタルドは「社会唯名論」、「社会=相互作用(個人の集まり以上のもの)」と捉えるジンメルとかスモールは「社会実在論」。後者ではプロセスが大切で、伝達が生じたプロセスでは、伝達がない場合とすでに現実的な「社会状態」は変化している(デューイ)。相互作用プロセスとその産物である意見が(個人の心の総和以上の)「社会意識」を構成する。

Those who thought the concept was real, and not the name of a mere collection of individuals, were realists. In this sense Tarde and Giddings and all those writers who think of society as a collection of actually or potentially like-minded persons would be nominalists, while other writers like Simmel, Ratzenhofer, and Small, who think of society in terms of interaction and social process may be called realists. They are realist, at any rate, in so far as they think of the members of a society as bound together in a system of mutual influences which has sufficient character to be described as a process.

 

デュルケームもこの見取り図だとジンメルやスモールと同様の「相互行為・実在論者」になる。

 

The thing that characterizes Durkheim and his followers is their insistence upon the fact that all cultural materials, and expressions, including language, science, religion, public opinion, and law, since they are the products of social intercourse and social interaction, are bound to have an objective, public, and social character such as no product of an individual mind either has or can have. Durkheim speaks of these mental products, individual and social, as representations. The characteristic product of the individual mind is the percept, or, as Durkheim describes it, the "individual representation." The percept is, and remains, a private and an individual matter. No one can reproduce, or communicate to another, subjective impressions or the mental imagery in the concrete form in which they come to the individual himself. My neighbor may be able to read my "thoughts" and understand the motives that impel me to action better than I understand myself, but he cannot reproduce the images, with just the fringes of sense and feeling with which they come to my mind.

尺度分析

尺度分析(しゃくどぶんせき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

アメリカの社会心理学者ガットマンLouis Guttman(1916―1987)によって提案された態度尺度構成法の一つ。ガットマン尺度Guttman's scaleをつくること、所与の尺度がガットマン尺度を構成しているか否かを検討すること、ガットマン尺度によって個人を相対的に順位づけること、が含まれる。今日ではあまり用いられることのない方法であるが、概念的、数理的には興味深いものがある。

 ガットマン尺度では、ある事象に対する態度を一連の質問項目によって測定するが、このとき、質問項目が一次元的に配列されているのが特徴である。たとえば、ある事象に関する意見が好意的なものから非好意的なものへと順に配列されているならば、ある質問に賛成した者は、その質問より後の、すなわち非好意的な質問には賛成するであろうし、ある質問に反対した者は、それより前の、すなわちより好意的な質問には反対であろう。この条件を満たす質問項目によって構成されるものが、スケーラブルscalableな尺度とよばれる。スケーラブルな尺度を作成するための技法を、スケーログラム分析scalogram analysisとよぶ。

 スケーラブルな尺度は、特殊な性質をもっている。第一に、個人の賛成した数がわかれば、各意見項目にどのように反応したかを知ることができる。第二に、態度に関するスケーラブルな尺度について、横軸に好意的なものから非好意的なものまでの質問項目の内容を、縦軸に態度の強さをとった平面上に各人を位置づけると、それらはU字型曲線を示す。つまり、極端に賛成または反対の態度を示す者は態度の強さが大であり、中立的な態度の者は態度の強さが小なのである。そしてガットマンは、極小点が態度のゼロ・ポイントであると考えた。この態度のゼロ・ポイントの発見方法は、強度分析intensity analysisといわれる。従来、世論調査などであるトピックについての態度を調べようとするとき、質問項目の微妙な言い回しが賛否の割合に影響するという問題があったが、強度分析を用いれば、賛成グループと反対グループを弁別することができるわけである。

 ガットマン尺度においては、一次元的な構造をもつ事象の存在を明らかにすることを目的としていたが、複数の次元からなる事象の場合には、多次元尺度分析が必要となる。ガットマン自身もそうであったが、現在の尺度化の関心は、多次元尺度構成のための理論と技法へと移ってきているといえる。強度分析は、一次元的連続体を成分に分解し、多次元分析への志向を含んだ方法であるといえる

指標ドリフト

・LazarsfeldはAdornoらの権威主義的パーソナリティ研究について「指標のドリフト」を指摘。(木村 2022:110)

・「指標のドリフト」は「データドリフト/概念ドリフト」と呼ばれるものとほほ同義。ラザースフェルド自身の説明はLazarsfeld1959に。

「 データドリフト/概念ドリフト 」 船井総研 工場DX.com~ロボット化自動化、AI・デジタル・Iot、システム化 ̄より引用。

データドリフトとは、データの変化にモデルが対応しきれずに精度が劣化してしまうことを指します。具体的には、学習時に想定していたデータ分布に対して、運用段階におけるデータ分布が異なる場合が挙げられます。
スマートフォンに関連するモデルを作成するとしたとき、数年前における使用者の割合と近年における使用者の割合は全く異なるため、当時作成したモデルはデータドリフトによって精度が劣化してしまう。というものです。

概念ドリフトとは、当初設定していた予測結果(目的変数)が変化することで、モデル作成時に設定していた入力データ(説明変数)では過不足が発生してしまい、精度が低下してしまうことを指します。具体的には、画像検査において、当初想定していた検査基準に対して、運用時における検査基準が異なることが挙げられます。

ワイマールからヒットラーへ

noteより

『ワイマールからヒットラーへ』 エーリッヒ・フロム|notebook.act

より抜粋。

 

フロムの戦前の調査研究。

なんとこれにラザースフェルドが助言していて、その体験をもとに洗剤構造分析が生まれたらしいぜ。すげー。

木村「フロムとラザーズフェルド,そして潜在構造分析の誕生── 権威主義的性格の精神分析と計量分析 ──」

 

(以下引用の引用)

権威主義的態度は人間が彼を超越した外部の力に隷属することを肯定する。それどころか、それを熱望し、喜ぶ。その力が国家であれ、指導者であれ、自然の法則であれ、過去であれ、あるいは神であれ。強く、力のある者は、まさにその性質のゆえに賛美され、愛される。弱く、力を持たない者は、憎まれ軽蔑される(E.フロム、一九三六a参照)。人生享受と幸福ではなく、犠牲と義務とが権威主義的態度の主たる目標である。
 これら両極端の態度とは別に、第三の改良主義的態度がある。これは権威があまりにも厳しく、あまりにも個人を侵害する場合には、直ちに拒絶するが、そのような性格が表われていない時には、権威を求める。(『ワイマールからヒットラーへ』エーリッヒ・フロム)

 権威主義的性格は、一般に二つの下位グループに分けることができる。すなわち、保守的・権威主義型と、反抗的・権威主義型とである。保守的・権威主義的性格の人びとは、基本的に一つの権威に服従することを望み、自分の社会で公に認められている権威に異議を持つことがない。これの古典的な例は、君主制下の中流階級である──その典型がウィルヘルム時代の君主制小市民階級であった。この階級に属する人びとは、輝かしい権威と権力の象徴とを愛した。彼らは権威に同化し、そのことによって安定と力とを感じた。彼らの生活は、輝かしいものではなかったにしても、確かなものであった。彼らは経済的安定を感じ、一家のあるじであった。どんな反抗的な感情をいだいていたとしても、それは深く隠れて眠っていたのである。
 しかしこの図も、小市民階級の経済的、政治的立場の変化に伴って変わった。彼らは、一九二一~二三年のインフレーションで、貯えを失った。かつては賛美された王権も、決定的な敗北を喫し、みずから望みを絶ってからは、信頼を失ってしまった。かくして、それまで抑圧されていた反抗の衝動が強力に刺激され、今や表面に現われてきた。小市民層、とりわけ若い年代層が、反抗的・権威主義的特徴を見せるようになり、しだいに憎まれつつある権威に反抗した。権威が譲歩的で弱々しく見えれば見えるほど、憎悪と軽蔑は増した。無力感と経済的困窮とに不断に養われたこの情緒的欲求は、本来潜在的なものであったが、何らかの政治運動が、非力な共和制の権威と、打倒された君主制の権威とのいずれもが持たなかった力を予告する新しい権威の象徴を提示しさえすれば、いつでも活性化することができたのである。
 戦後期にはそのような【反抗的・権威主義的性格類型】が、社会主義政党共産党に数多く参加した。左翼が彼らにとって魅力であったのは、何よりも、一般の窮状を救うこともなく反対勢力の攻撃の前にきわめて弱体化していた当時の権威に対する戦いを、左翼が代表していたからであった。ところが、幸福、自由、平等という、他の目標に対しては、彼らは無関心であった。左翼政党が、彼らの反抗的衝動に訴える唯一の党であるかぎり、彼らの熱烈な支援を期待することができた。反抗的・権威主義型の人間に対しては、資本主義を破壊し、社会主義社会を打ち立てることの必要性を信じさせることが容易であったからである。しかし、後年、ナチスプロパガンダもまさにこの点から出発したのである。ナチスもまた反抗的感情のはけ口を与えたが、もちろん違いはあった。彼らが戦いをいどんだ権力のシンボルと権威は、ワイマール共和国と金融資本とユダヤ人であった。同時にこの新しいイデオロギーは新しい権威を打ち立てた。党と純血社会と総統であって、その力は、その残忍さによって強調された。新しいこのイデオロギーはまた二つの欲求を同時に満足させた。反抗的性向と全面服従への潜在的願望とであった。
 私たちの資料中、権威主義的・反抗的類型が最も多く集まったのは、RA-の集団であった。ここの回答者にとって、政治思想の重みはおそらく相当なものであって、多くの場合に強い感情を伴っていた。しかし、その思想の堅固さはきわめて低く評価しなければならない。そのうえ、この場合において、ナチスの理念がパーソナリティに及ぼした影響は、左翼の理論より強かったから、このグループを構成していたのは、結局まさに三〇年代はじめ、あるいはナチスが権力を握った直後に、確信を持った左翼から、同じように確信を持ったナチスになった人びとである。(同)

 明らかなことは、「社会主義」という回答はマルクス主義の教義に合致するが、一方、強力な政府を期待するのは明白に反社会主義の立場に分類できる、ということである。「知識…」、「国際主義」、「富裕税」は、実際に何人かの社会主義者が書いたが、マルクス主義には合致しない。それらは文化、政治、経済の分野で、部分的な解決策を提示してはいるが、資本主義社会を社会主義社会に替えるというラディカルな解決策ではない。
(以下は表4.2)「有名な国家指導者。レーニン、その他の革命的社会主義者を含む」をあげた回答者は、権威主義的性格とした。彼らにとっては、強力な指導者が社会主義のために闘おうと、何か他のもののために闘おうと同じことだということが、回答の組み合わせからわかったからである。決定的となるのはむしろ、強力な指導者像そのものであった。(同)

 権威主義的態度の特徴は、自分の人生をより高い権力に従属させ、自分自身を絶対的に弱いもの、あるいはより高い権カの道具と見なすところにある、ということをも指摘した。他方、権威主義的態度は、弱者を支配し、自分が強者に対して感じている従属関係に彼らを置く性向によってもまた、特徴づけられる。権威主義的態度のこの両面は、権威体系の階級組織(ヒエラルヒー)において満足させられる。そこではだれでも、服従しなければならないだれかが自分の上にいる。そして支配することのできるだれかが自分の下にいる。ふつう、経済について何の力も持たない、今日の社会の平均的市民の状況を観察すると、彼の権威主義的性向はまず私的な領域で発揮される。すなわち、妻と子供に対する関係である。権威主義的な態度が存在するかぎり、それは妻の経済的自立に対する拒否と、さらには、体罰の不足は子供に悪いという信念とに表われる。一方、左翼的理論は、その反対の立場を主張しているのである。(同)

 一方で、回答動向は、心理的要因をも同じように色濃く反映していると言えた。というのは、多くの男性の性格に、本質的に権威主義的な特徴が見られるからである。こういう人びとの心の底にあるのは、自分より弱く、自分に服従し、賛美する人間を意のままにしたいという、ひそかな欲求である。その望みは、女性の従属によって満たされる。疑いもなく、多くの労働者は、政治的には反権威主義的を態度をとった時にも、その性格においては、依然として権威主義的であった。このことは、権威主義的な性格構造自体が歴史の産物である以上、驚くにはあたらない。私たちの調査の時期、すなわち一九二九年には、権威主義的性格は、まず下層中流階級に最も純粋で最も極端な形で見られたが、労働者においてもしばしば見いだされた。家庭の機能の変化も、また、とくに大企業に顕著な労働者の上司に対する伝統的個人関係の崩壊も、徐々に権威に対する態度の変化をもたらした。同時に、同僚労働者との連帯感が育ちつつあったが、とりわけ社会における個人の無力感によって、妻と子供の服従が容易に無視できない重要な代償機能をになうようになった。(同)

 被調査者の大多数が、人間の運命はその社会的な位置の制約を受けると回答しながら、その考えに、それ以上の解説を加えなかった。この回答は、従来の社会主義の思考様式と合致しているようだが、マルクス主義理論の本質的な要点を無視している。この理論の出発点は、人間は自分の社会的な位置に依存しているにもかかわらず、というよりは、まさに依存しているからこそ、政治活動によって自分の運命を変えることができる、というところにある。社会主義のこの重要な実践主義的特徴を強調した回答のみが「ラディカル」として分類され、人間の運命は環境に依存するという単純な回答は、不定と見なされた。権威主義的立場は、一見矛盾した二つの回答類型によって表現された。その一つは、人間は自分の運命を動かすにはまったく無力であると述べた。もう一つは、本人のみが自分の運命にも失敗にも責任を負うべきだ、という回答であった。これら二つの意見とも、人間は自分自身の外にある力に依存していて、必ずそれに服従しなければならない、という信念に基づいている。この場合、第一の回答類型は無力感と服従とを強調し、第二の類型は、内在化された権威、すなわち義務感および意識の判断に従わなければならないと考えた。(同)

https://www.y-history.net/appendix/wh1003-076.html

 

新聞/ジャーナリズム
17世紀のイギリスに始まり、18世紀に近代的な新聞・雑誌などのジャーナリズムが成立した。

 新聞などのジャーナリズムの発生には、17~18世紀のイギリスで流行したコーヒーハウスと密接な関係があった。ピューリタン革命から王政復古、名誉革命という王党派と議会派の対立の中で成長した中産市民階級(ジェントルマン)は、政治や経済の動向をつねに意識し、情報の収集に努めなければならなかった。その時に情報収集の場となったのがコーヒーハウスであり、新聞や雑誌はそこで多くの読者を得、またその発行者もそこで情報を得ていた。コーヒーハウスが情報センターの役割を担い、ジャーナリズムはそこから発生したと言うことができる。
新聞の登場

 イギリスで初めて新聞が発行されたのがいつかということは、はっきりしたことは判っていない。普通は1621年に本屋のトマス=アーチャーが出した『クーラント』が最初の新聞で、アーチャーは「イギリス最初の新聞人」とされている。しかし、それが新聞と言えるものであったか、それ以前に発行されたものがなかったか、問題が残る。
 グーテンベルクによる印刷術の発明によって、まずブロードサイドと呼ばれる一枚の大きな紙の片面に大事件や戦争の記事を印刷したしたものが現れた。1594年にはケルンで『メルクリウス・ガロペルギクス』という小冊子が、神聖ローマ帝国の外交、軍事に関する報道を行っており、イギリスでも売られた。しかし発行は不定期であったので、イギリスではニューズペーパーとは呼ばれず、ニューズブックと言われていた。それに類したものがイギリスでも発行されていた。アーチャーが1621年に出したのはフォリオ版(全紙・二つ折り)で両面印刷され、新聞(ニューズペーパー)に近い体裁をしていた。
 1640年代に同じような新聞が数多く発刊されるようになった。1644年のはじめにはロンドンで12種類の新聞が売られていたが、当時の人口50万のうち、成人男子の半分ぐらいは字が読めたと推定されるので、6万人ぐらいは新聞読者になる可能性があったが、発行部数は、新しい新聞でせいぜい250~500ぐらいだったというから、あまり多いとは言えない。しかし、実際の新聞はコーヒーハウスに置かれ、回し読みされたから、もっと多くの人の眼に触れたであろう。
ジャーナリズムの発生

 1660年の王政復古後、イギリスの新聞ジャーナリズムは急速に活発化した。ヘンリー=マディマンという人物が国王擁護の立場から毎週月曜日に16ページ仕立ての新聞を発行し、コーヒーハウスで回し読みされた。1665年、ロンドンでペストが大流行したため宮廷がオクスフォードに一時的に移ると『オクスフォード・ガゼット』を出し、ペストが治まって宮廷がロンドンに戻ると『ロンドン・ガゼット』と名を変えた。オクスフォード・ガゼットは官報的な内容に加えて一般のニュースも載せたので、近代ジャーナリズムの発生と見ることができる。
 1680年、チャールズ2世はあらゆる新聞の規制は国王特権であると布告し、以後『ロンドン・ガゼット』のみが政府の許可を得た正式な新聞であるとされた。名誉革命後の1695年にはある程度新聞発行の自由が認められ、トーリ系とホィッグ系の新聞が発行されるようになった。1702年3月11日には、イギリス最初の日刊新聞『デーリー・クラント』が発刊され、その他多くの都市でも新聞の発行が相次いだ。この時代も新聞はコーヒーハウスに置かれ回覧されていた。
雑誌の隆盛

 新聞に対し、雑誌での本格的なものの出現は18世紀で、最初は1704年にデフォーが創刊した『レビュー』である。当初は週1回であったが1712年以降は月・木・土曜日の週3回となり、デフォーひとりで執筆編集された。日本では『ロビンソン=クルーソー』の作者としてしか知られていないデフォーであるが、精力的なジャーナリストだったのであり、生涯のうちどれだけの分量の著述を行ったか正確にはつかめていない。デフォーの政治的立場はホイッグ派であり、その視点から政治と経済、特に商業と貿易についての記事が極めて多い。それに対抗したのがスウィフトの『エグザミナー』であり、これは明らかにトーリ派の立場から記事、論評が書かれていた。
 これらの政治色の強い雑誌に対して、1709年4月に第1号の出たリチャード・スティール編集の『タトラー』(おしゃべりの意味)は同時代の社会現象を幅広く記事にし、また文芸雑誌という趣もあった。1711年3月には『スペクテイター』が刊行され、政治議論を排し、ゴシップ記事を多く載せながら、洗練された文章で人びとの好奇心を刺激し、近代的な雑誌の先駆けとなった。<以上、小林章夫『コーヒー・ハウス』2000 講談社学術文庫 による>

財政=軍事国家

http://park.saitama-u.ac.jp/~yanagisawa/history00/militarystate.htmlより

 

財政軍事国家
さて、歴史学者J.ブルーワは The Sinews of Power(1989) の中で 「財政軍事国家(Fiscal Military State)」という概念を提起し、 18世紀イギリスの特徴をクリアに描き出した。 17世紀末から19世紀初のナポレオン戦争まで、イギリスはフランスとの戦争に勝ち続けた。フランスは人口がイギリスの4倍あり、経済力もだいたい4倍あった。にもかかわらず、戦争に勝てなかったのである。このパラドクスを説明したのが財政軍事国家である。 イギリスはフランスとの覇権争いのために軍事費を増大させた。 一人あたりの税額はイギリスはフランスの2倍近かったといわれている。 ブルーワによれば、それだけの徴税が可能であったから、対仏戦争に勝利できたというのである。かつてのフランスのイメージは、強力な絶対主義が実行された国家で、民主主義の進んだイギリスと比べればはるかに重税を課す国家というものであった。しかし、ブルーワの議論に従えば、イギリスこそ重税国家の典型ということになる。フランスは近代的な官僚制の発展が遅れたために、まともに機能する徴税システムが存在していなかったのである。

ここでブルーワも依拠している、P.オブライエンの議論を紹介しておこう。 イングランド政府は重商主義戦争にかかった莫大な費用を短期の一時金として借り入れ、 その借金は長期の国債に借り替えていくという手法(「借換制度」)をとった。 この借換制度が機能したのは、 政府の徴税能力が高かったために国債に信用があったからである。 国債の利払いの必要から、名誉革命から18世紀末にかけて、税負担は実に18倍に増加した。 ヨーロッパ大陸専制国家と比較して、国民所得に占める税の割合ははるかに高かった。 オブライエンによれば、国民所得の40%が合法・非合法に税金から免れていたと仮定すれば、 残りの有効な課税ベースから税徴集される割合は、 1700年の15%から1810年の30%へと上昇したことになる。

経済成長がこのような高い税を可能にしたと考えられるかもしれない。 しかし、経済成長に合わせて課税していたとすれば、 1810年時点では実際の税収の2,3割程度しか徴税できなかったことになる。 つまり、経済成長は税収増加の主要な要因ではない。 課税ベースが拡大していったのが主要な要因である。

名誉革命時点では土地にかけられる税が歳入全体の47%を占めていたが、 18世紀末になるとその割合は21%へと低下していく。 この期間に税の大半は商品やサービスにかけられる間接税へと変化していった。 税の種類は次第に増加していった。 関税対象も含めると、窓、馬車、召使、砂糖、茶、塩、石炭、ロウソク、レンガ、 木材、石鹸、ビール、ワイン、煙草、新聞、火災保険、等々へとである。 18世紀末になると、所得税が導入されていく。

参照文献:
P.オブライエン『帝国主義と工業化1415-1974』(ミネルヴァ書房)
同書訳者解説(秋田茂)

参考文献 付記:ブルーワの本が翻訳されました。興味にある方はチャレンジしてみて下さい。大変おもしろい本です。
ブリュア『財政=軍事国家の衝撃』(名古屋大学出版会)