ワイマールからヒットラーへ

noteより

『ワイマールからヒットラーへ』 エーリッヒ・フロム|notebook.act

より抜粋。

 

フロムの戦前の調査研究。

なんとこれにラザースフェルドが助言していて、その体験をもとに洗剤構造分析が生まれたらしいぜ。すげー。

木村「フロムとラザーズフェルド,そして潜在構造分析の誕生── 権威主義的性格の精神分析と計量分析 ──」

 

(以下引用の引用)

権威主義的態度は人間が彼を超越した外部の力に隷属することを肯定する。それどころか、それを熱望し、喜ぶ。その力が国家であれ、指導者であれ、自然の法則であれ、過去であれ、あるいは神であれ。強く、力のある者は、まさにその性質のゆえに賛美され、愛される。弱く、力を持たない者は、憎まれ軽蔑される(E.フロム、一九三六a参照)。人生享受と幸福ではなく、犠牲と義務とが権威主義的態度の主たる目標である。
 これら両極端の態度とは別に、第三の改良主義的態度がある。これは権威があまりにも厳しく、あまりにも個人を侵害する場合には、直ちに拒絶するが、そのような性格が表われていない時には、権威を求める。(『ワイマールからヒットラーへ』エーリッヒ・フロム)

 権威主義的性格は、一般に二つの下位グループに分けることができる。すなわち、保守的・権威主義型と、反抗的・権威主義型とである。保守的・権威主義的性格の人びとは、基本的に一つの権威に服従することを望み、自分の社会で公に認められている権威に異議を持つことがない。これの古典的な例は、君主制下の中流階級である──その典型がウィルヘルム時代の君主制小市民階級であった。この階級に属する人びとは、輝かしい権威と権力の象徴とを愛した。彼らは権威に同化し、そのことによって安定と力とを感じた。彼らの生活は、輝かしいものではなかったにしても、確かなものであった。彼らは経済的安定を感じ、一家のあるじであった。どんな反抗的な感情をいだいていたとしても、それは深く隠れて眠っていたのである。
 しかしこの図も、小市民階級の経済的、政治的立場の変化に伴って変わった。彼らは、一九二一~二三年のインフレーションで、貯えを失った。かつては賛美された王権も、決定的な敗北を喫し、みずから望みを絶ってからは、信頼を失ってしまった。かくして、それまで抑圧されていた反抗の衝動が強力に刺激され、今や表面に現われてきた。小市民層、とりわけ若い年代層が、反抗的・権威主義的特徴を見せるようになり、しだいに憎まれつつある権威に反抗した。権威が譲歩的で弱々しく見えれば見えるほど、憎悪と軽蔑は増した。無力感と経済的困窮とに不断に養われたこの情緒的欲求は、本来潜在的なものであったが、何らかの政治運動が、非力な共和制の権威と、打倒された君主制の権威とのいずれもが持たなかった力を予告する新しい権威の象徴を提示しさえすれば、いつでも活性化することができたのである。
 戦後期にはそのような【反抗的・権威主義的性格類型】が、社会主義政党共産党に数多く参加した。左翼が彼らにとって魅力であったのは、何よりも、一般の窮状を救うこともなく反対勢力の攻撃の前にきわめて弱体化していた当時の権威に対する戦いを、左翼が代表していたからであった。ところが、幸福、自由、平等という、他の目標に対しては、彼らは無関心であった。左翼政党が、彼らの反抗的衝動に訴える唯一の党であるかぎり、彼らの熱烈な支援を期待することができた。反抗的・権威主義型の人間に対しては、資本主義を破壊し、社会主義社会を打ち立てることの必要性を信じさせることが容易であったからである。しかし、後年、ナチスプロパガンダもまさにこの点から出発したのである。ナチスもまた反抗的感情のはけ口を与えたが、もちろん違いはあった。彼らが戦いをいどんだ権力のシンボルと権威は、ワイマール共和国と金融資本とユダヤ人であった。同時にこの新しいイデオロギーは新しい権威を打ち立てた。党と純血社会と総統であって、その力は、その残忍さによって強調された。新しいこのイデオロギーはまた二つの欲求を同時に満足させた。反抗的性向と全面服従への潜在的願望とであった。
 私たちの資料中、権威主義的・反抗的類型が最も多く集まったのは、RA-の集団であった。ここの回答者にとって、政治思想の重みはおそらく相当なものであって、多くの場合に強い感情を伴っていた。しかし、その思想の堅固さはきわめて低く評価しなければならない。そのうえ、この場合において、ナチスの理念がパーソナリティに及ぼした影響は、左翼の理論より強かったから、このグループを構成していたのは、結局まさに三〇年代はじめ、あるいはナチスが権力を握った直後に、確信を持った左翼から、同じように確信を持ったナチスになった人びとである。(同)

 明らかなことは、「社会主義」という回答はマルクス主義の教義に合致するが、一方、強力な政府を期待するのは明白に反社会主義の立場に分類できる、ということである。「知識…」、「国際主義」、「富裕税」は、実際に何人かの社会主義者が書いたが、マルクス主義には合致しない。それらは文化、政治、経済の分野で、部分的な解決策を提示してはいるが、資本主義社会を社会主義社会に替えるというラディカルな解決策ではない。
(以下は表4.2)「有名な国家指導者。レーニン、その他の革命的社会主義者を含む」をあげた回答者は、権威主義的性格とした。彼らにとっては、強力な指導者が社会主義のために闘おうと、何か他のもののために闘おうと同じことだということが、回答の組み合わせからわかったからである。決定的となるのはむしろ、強力な指導者像そのものであった。(同)

 権威主義的態度の特徴は、自分の人生をより高い権力に従属させ、自分自身を絶対的に弱いもの、あるいはより高い権カの道具と見なすところにある、ということをも指摘した。他方、権威主義的態度は、弱者を支配し、自分が強者に対して感じている従属関係に彼らを置く性向によってもまた、特徴づけられる。権威主義的態度のこの両面は、権威体系の階級組織(ヒエラルヒー)において満足させられる。そこではだれでも、服従しなければならないだれかが自分の上にいる。そして支配することのできるだれかが自分の下にいる。ふつう、経済について何の力も持たない、今日の社会の平均的市民の状況を観察すると、彼の権威主義的性向はまず私的な領域で発揮される。すなわち、妻と子供に対する関係である。権威主義的な態度が存在するかぎり、それは妻の経済的自立に対する拒否と、さらには、体罰の不足は子供に悪いという信念とに表われる。一方、左翼的理論は、その反対の立場を主張しているのである。(同)

 一方で、回答動向は、心理的要因をも同じように色濃く反映していると言えた。というのは、多くの男性の性格に、本質的に権威主義的な特徴が見られるからである。こういう人びとの心の底にあるのは、自分より弱く、自分に服従し、賛美する人間を意のままにしたいという、ひそかな欲求である。その望みは、女性の従属によって満たされる。疑いもなく、多くの労働者は、政治的には反権威主義的を態度をとった時にも、その性格においては、依然として権威主義的であった。このことは、権威主義的な性格構造自体が歴史の産物である以上、驚くにはあたらない。私たちの調査の時期、すなわち一九二九年には、権威主義的性格は、まず下層中流階級に最も純粋で最も極端な形で見られたが、労働者においてもしばしば見いだされた。家庭の機能の変化も、また、とくに大企業に顕著な労働者の上司に対する伝統的個人関係の崩壊も、徐々に権威に対する態度の変化をもたらした。同時に、同僚労働者との連帯感が育ちつつあったが、とりわけ社会における個人の無力感によって、妻と子供の服従が容易に無視できない重要な代償機能をになうようになった。(同)

 被調査者の大多数が、人間の運命はその社会的な位置の制約を受けると回答しながら、その考えに、それ以上の解説を加えなかった。この回答は、従来の社会主義の思考様式と合致しているようだが、マルクス主義理論の本質的な要点を無視している。この理論の出発点は、人間は自分の社会的な位置に依存しているにもかかわらず、というよりは、まさに依存しているからこそ、政治活動によって自分の運命を変えることができる、というところにある。社会主義のこの重要な実践主義的特徴を強調した回答のみが「ラディカル」として分類され、人間の運命は環境に依存するという単純な回答は、不定と見なされた。権威主義的立場は、一見矛盾した二つの回答類型によって表現された。その一つは、人間は自分の運命を動かすにはまったく無力であると述べた。もう一つは、本人のみが自分の運命にも失敗にも責任を負うべきだ、という回答であった。これら二つの意見とも、人間は自分自身の外にある力に依存していて、必ずそれに服従しなければならない、という信念に基づいている。この場合、第一の回答類型は無力感と服従とを強調し、第二の類型は、内在化された権威、すなわち義務感および意識の判断に従わなければならないと考えた。(同)